第9章 愉快に死ぬための知恵 その⑴

私の体験から話してみよう。
母が30年ほど前に72歳で胆管がんで亡くなったのだけど、看病していてつくづく思ったのは、「人間は死ぬとき子供に帰っていくんだな」ということ。身体も表情もだんだんとしわくちゃになっていくんだね。生まれてすぐの赤ちゃんはお猿さんみたいだよね、しわくちゃで。死ぬ時も赤ちゃんどころかお猿さんに帰っていくような気がして、原初の命そのものに帰っていくんだな、と思ったんだね。そしてよく言われるように、最後の最後は微笑みながら苦しまずに死んでいった。あらゆる重荷から解放されて、自分という最大の重荷=執着から解放されて穏やかな表情で亡くなった。
母は晩年には信心深い人になったようで、いつも仏壇に祈ったりお経をあげたりして、何とか浄土に行きたいと願っていたみたいだけど、もちろんそんな浄土や悟りの境地になんてなかなかに程遠かった。昔の意地悪をされた人への恨みつらみを死へと向かう朦朧とした意識の中でも時々愚痴っていたしね。そういう意味では、人間の煩悩、欲望はあまりにも深くどす黒く度し難いから、普通の人にとって死ぬプロセスの最後の最後の時が唯一悟れる、自分への執着から解放されるラストチャンスかもしれないな、としみじみ感じいった次第だった。
さて、
愉快に死ぬための智慧は、ここまで述べてきた「愉快に生きる。意識的に生きる」ことの延長だ。
最後の最後は微笑みながら「ありがとう」とつぶやきながら意識的に死にたい。できれば、眠るようにすうっと死にたいよね。でもその前には、不安やイライラや滅入った気分に襲われるのも自然だ。そして、何よりも痛みが伴う可能性があるから、厄介だよね。痛みさえなければ死ぬのはそんなに怖くない、というのが多くの人の本音だろう。そうした心と身体の痛みにうまく対処するために、ここまで述べてきた多彩なノウハウがきっとどこかで役立つはずだ。

<死の意味>
死への考え方、向かい方、理解の仕方によっては、随分と死への不安や恐怖は和らいでいく可能性がある。
まずは、死は人類にとっても、生命にとっても、恐らく宇宙にとっても必要だという点が一番必要な理解だろう。死によって初めて命は繋がっていく。命のリレー、バトンタッチだよね。命がバトンタッチされることで初めて変化が可能になる。もしも皆がずっとずっと生きたら、変化も革新も起きないよね。ここまで人類がより柔軟に多彩に変化できたのも死と生の入れ替わりによって構造が良い方向に少しづつ変化したからだ。なので、死は人類や生命の変化(たぶん進化)に貢献している。私たちは生きて死ぬだけでも、存在するだけでも意味があるのだ。宇宙や生命の変化~進化に貢献しているのだからね。
エントロピーという概念がある。
無秩序さや情報の乱雑さを表す概念だよね。熱力学第2法則によると、閉じた系ではエントロピーは常に増大するという。宇宙全体も一つの閉じた系なので、秩序から無秩序に向かってガンガン変化している。最終的には加速度的に膨張をつづけた宇宙は燃え尽き、熱的死というエントロピーが最大に達した状態になる。つまり宇宙の崩壊だね。我々の生命も生老病死といわれるように、宇宙と同じく秩序から無秩序に向かってがんがん進み、最後は病と死=崩壊に至る。もっと身近なところでは、きれいに掃除した部屋があっという間に汚くぐちゃぐちゃになるように、あらゆるものが秩序から無秩序に向かって進んでいく。そして崩壊したのちに、新たな秩序が生まれる。これが宇宙と生命の法則だと理解すると、何だか愉快にならないかな? ある意味では、われわれが存在して、生老病死するというだけでも、宇宙のエントロピーに貢献している。生きてるだけでも意味があると考えられるよね(いきなりのポジティブ宣言)。なので、何もしないでも、何も生み出さなくても、価値ある生き方をしなくとも、別に普通に生きて死ぬことだけでも宇宙への大いなる貢献だ。
まあ、話がでかすぎて戸惑うよね。
では、もう少し身近な現実的な問題として、考えてみよう。私はもう80に近いけれど、私の船(肉体)はもうボロボロであちこち修理が必要だし、修理してもうまく荒海を乗り越えられないだろう。200歳までの命をくれると言われても、願い下げだ。たとえ、身体は健康でお金もそこそこあったとしても、長く生きるのは真っ平ごめん~としみじみ思う。今でさえ、時間がたっぷりあると、退屈だし暇つぶしにあくせくしているのがベースとしてある。
いかに愉快に、いかに面白おかしく暇つぶしをするかが何とも切実な課題となっている(年のせいか?いきなりのネガティブトークで申し訳ない)。ほんの一部のクリエーターを除いて、ほとんどの老人が時間を持て余して一日中テレビを見て退屈をしのいでいるのではないだろうか? 昼間ジムへ行くと、多くの高齢者が黙々と暇つぶしに精を出している。それでも、女性陣は元気で楽しそうにおしゃべりしているが、男性陣はおおよそつまらなそうに、他にすることがないのでという風情で身体を動かしている。哀しいかな? ちっとも楽しそうでない。なので、死ぬことはある種の救済だよね。誰もが200歳まで生きたいとは思わないだろうからね。


次に、哲学的な視点から、死の意味について考えてみよう。
哲学者のマルティン・ハイデッガーは死を「避けられない未来」として受け止めることで、人生に真の意味や緊張感が生まれると考えた。死は恐怖や終わりではなく、「本当に生きるとは何か」を問うための最も本質的な契機だとしたんだね。日常の中で人は世間に流され自分を見失って生きがちだよね。これを彼は頽落と呼んだ。しかし、「自分が必ず死ぬ」という現実に直面した時、人は「自己の存在の意味」に気付き、本来の自分に立ち返る可能性が生まれる、と説いたんだ。ヨーガで「死体のポーズ」という、ただ横になって死を味わうメソッドがあるけど、同じ考えだよね。私も研修で、よく「時々死んでみましょう」と、メメントモリ(死を思え)ワークをすると、参加者は「命が賦活するような、蘇るような、こだわりから解放されるような新鮮な体験を味わえた」との感想が多く、好評なワークとなっている。「世間なんて糞くらえ」「成功者も失敗者もいない。死んでしまえば皆同じ」なんて、自由で愉快な体験ができるので、時々死んでみるのがよろしい。
実際、私は退屈して良からぬ妄想やネガティブな思いや感情にとらわれた時には、後一年の命だとしたら、何をするだろうか? あるいは何をしないだろうか? と考える。世のしがらみやちっぽけな欲望や他者への思いいれは、まずもっていらない、と実感できる。別にクリエイティブなことを成し遂げたり、ましては自己実現なんてものは、まあ今更どうでもいいと思えてくるだろう。何もしなくとも、死ぬまで普通に愉快に生きればいいかな?とも実感できるかもしれない。いずれにせよ、死を意識することは、何が必要でないかを見定める絶好のチャンスと言えるだろう。
また、有限性の自覚、死があるからこそ、私たちは時間を意識し、どう生きるかを真剣に考えるようになる。そんな時間軸を通して、人生や死を考える上でとても意味のあるツールに「ライフライン」というワークがある。
- 大き目のノートか模造紙に横に長い線を引く。その線の一番左側が0歳(誕生前の記憶がある場合はマイナス0歳)、一番右側が現在の年齢だ。高齢者は当然ながらラインは長くなる
- その線の上側に、生まれた時(あるいは母親の胎内にいる時期)からのプラスの出来事とその時の年齢を次々と記入していく。
- その線の下側に、生まれた時からのマイナスの出来事と年齢を次々と記入していく。
- 年齢順にそれらの出来事を線で結んでいく。すると、ほとんどの人はラインを挟んでジグザグの線ができるだろう。
- 今までの人生を振り返ってみよう。「快晴の日もあれば土砂降りの日もあったな」「人生いろいろ、おもろかったな」等々。なるべく些細なプラスの出来事に目を向けるようにする。私なら「人生8勝7敗でちょうどいいな」と納得する。
- 最後にラインを伸ばして、自分が死ぬ年齢を定める。現在から死ぬまでのラインでは上のプラスの領域にのみ、ささやかな愉快なイベントをイメージ、あるいは妄想して記入していく。

※この画像は生成AIにより作成
どうだろう。愉快な破天荒な妄想もありだよね。どうせある意味、物語の世界を生きているのだからね。「アウト老」という素敵な言葉を作り出したみうらじゅんが愉快な提言をしている。孤独や死に面して誰でも不安になるだろう。その際には「不安タスティック」と唱える。前もって、いつでも些細な不安やストレスに「不安タスティック」と唱える習慣をつけておけば、本当の凄まじい死の不安が来た時にも、この呪文で蹴散らして乗り越えられる、と提言している。なるほど、なるほど、愉快だね。エロスと愉快の権化だね、アウト老じゅんちゃん。さらに死ぬ間際にも愉快なアドバイスがある。死ぬ間際には、自分の人生を走馬灯のように、短編映画のように映像として見ると言われている(たぶん、本当だろう)。
その際、自分の人生の嫌な部分、ライフラインのマイナス映像ばかり出てきたのではたまらんだろう。そこでじゅんちゃんいわく「最後の走馬灯が愉快で美しい映像になるように、普段から楽しく幸せなイメージを盛るようトレーニングしておこう」と。普段からライフラインのプラスの部分に目を向けるだけでなく、妄想を膨らませて、死ぬ間際の走馬灯が愉快に幸せになるようイメージトレーニングをするのが肝心なり、とのアドバイスだ。いいね、何ともファンタスティックだね。
死を意識せざるを得ない高齢者は、一年に一回は「不安タスティック」と呪文を唱えながら、このライフラインを好きなように妄想して愉快になるのがよろしい。妄想のイメージが明確で豊かなら、きっと死ぬ間際の走馬灯も愉快なものになるだろうね。
(つづく)

筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。



