第1章 愉快に生き、愉快に死ぬためのやさしい生活の哲学 その3 意識セラピー
愉快に生きるには身体の賢さに頼るのがよさそうだ、と前回の考察で述べた。そうはいっても、刺激やストレスに応じて心は勝手に反応し動き回る。いわゆる自分の意思とは無関係にポッポッと浮かび上がる自動思考だ。その瞬時の反応を止めることはできないが、ネガティブな方向への拡大、悪しき連想ゲームは止められる。瞬時の反応にまずは気づき、そして認めて挨拶をする。「やあやあ、また来たな、いつものネガティブ反応さん、こんにちは」とできれば微笑んで挨拶をしよう。その上で「脳さん、脳さん、君の思い通りにゃ動かないぜ。私の道を選ぶのは君ではなく私だからな」と強く意志することが最低限必要だ。つまり、本当の自分は脳の反応=小さな不自由な私ではなく、意識と意志=大きな自由な私というわけだ。
理屈はその通りだが、なかなかに脳は手ごわい。何といっても何十年の間の経験の蓄積でネガティブな反応パターンが条件付けられ身についてしまっていて、ストレスに出会うと自動的そのパターンが起動するからだ。
そのパターンを書き換えるためにどうすればいいかといえば、可能な限り常に意識的であることだ。強いストレスがかかってから、素早い激しい反応に気づき意識的になろうとしても最初は難しいだろう。感情の揺れが比較的少ない何でもない生活の中で、常に自分の心=脳を観察する習慣を作ることが重要となる。
私はがんで入院中、痛みがない穏やかな気分の時に、何もすることがないのでよく観察トレーニングを試みた。
上述した、ただひたすらに「意識的になろう、自分の心を観察しよう」としてみたが、やっぱり難しい。そんなに私の意識は繊細にも高等にもできていないようだ。すぐに雑念の渦に巻き込まれてアップアップ、どんぶらこ? 状態に。
そこで、まずは脳の内部に意識を向け続けて、脳のどの部分から思考や感情が立ち現れてくるのか? を突きつめようとした。すると、あら不思議。そう思って脳の内部に意識を向け続けていると、脳はだんだんと静まり穏やかになって、何も反応しない、思考も感情も湧かない、空っぽの状態がしばらくの間訪れた。いわば、座禅でいう空の状態だったのかもしれない。ほんのちょっとだけど、束の間のミニ悟り体験だ。
脳の内部に側坐核という快感や嗜癖をつかさどる部分がある。美味しいものを食べたり、価値あるものを見ると、この部分からドーパミンという快感物質が放出され愉快になるという。私は何となく側坐核に意識を向け続けてみた。すると、不思議というか、当然というか、何だか気分がすっと爽快になり「おーっ、これが愉快に生きるこつかいな?」と理屈ではなく、体感としてこのモットーに辿り着いた次第だ。ちなみに、側坐核は、何を大切に思い、何のために生きたいと思っているか? を突き詰めていく中で活性化されるという。私の場合、「愉快に生き、愉快に死ぬ」ための智慧を考え、実践することで活性化されたのかもしれない。前回触れた、動くことで発生するやる気ホルモンも側坐核から出るドーパミンがその正体なのだ。
そもそも、なぜ「愉快に生き、愉快に死ぬ」というテーマに行きついたかといえば、これまた、がんの痛みととことん付き合おうとしたからだ。そういう意味では、がんの痛みは最高の先生=導師だったのだから、人生捨てたもんじゃない。
どういう軌跡でこのテーマに導かれたのか? といえば、この社会の不公正さ、理不尽さを否応なく感じたからだ。生活保護で着替えもろくになく、見舞いの家族や知り合いも一人としてこなかった同室の患者さんが前立腺がんが骨に転移して、痛みに耐えきれずのたうち回りながら死んでいくのを見た。かといえば、贅沢な個室で我儘放題えばっている偉そうな孤独な患者も見た。また、暖かい家族に囲まれて、お別れの挨拶を言い、泰然自若と静かに死を受け入れた患者さんも見た。世の中の矛盾や理不尽さ、不公平にほとんどの人が苦しみもがきながら、やっとこさと生きている。しかし、この苦しみと哀しみに満ち満ちた世の中での唯一の真理、慰みは、誰もがきっぱり平等に死んでいくことだ。何を成し遂げようと、いくら財産と名誉を積み重ねようと、そんな表面的な装いに関係なく、分け隔てなくきっぱりと死んでいく。死だけが公平で平等な唯一のファクトなのだ。だとしたら、この誰にでも平等な死というものを愉快に楽しんだ方が賢くないか? 価値あることではないか? ほかのことはどうでもいい、と思いついた次第だ。
幸い、死に行くプロセスをどう愉快に楽しむかといえば、上述したように、とことん意識的になり、死に行くプロセスを見つめ楽しもうとすればいいのではないか。脳がシンプルになり、過去や未来へのこだわりや執着から自然と解放され、意識的な観察が可能になりやすい。また、死ぬ間際にはドーパミンなどの幸せホルモンが放出されるので心身の痛みからも解放されるというではないか。誰でも平等に死のプロセスをまったり楽しむことができる可能性があるのは、どうしようもない愚かで哀れな欲望まみれの我々(私だけかな?)に残された唯一の希望ではないか? そして、そう思い定めれば、「苦しきことのみ大かりき」生きるプロセスも意識的観察をすることで「愉快に生きる」希望が見えてくるかもしれない。
次回「なるほど・なるほど主義」(予定)に続く
筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。