第1章 愉快に生き、愉快に死ぬためのやさしい生活の哲学 その5 自分って何?(まんじゅう主義)

そうなると、何万年かの人間の哲学上の課題、「自分って何?」「私って何?」という難題が浮上してくる。
例えば、ベテランのカウンセラーに「私は~」と書いてもらうと、さすがというか、当然というか、ありきたりではなく不思議な哲学的な答えが多く返ってきて驚いたことがある。
「私は川」
「私は大地の拡がり」
「私は揺れる雑草」
「私は輝ける闇」
「私は善と悪の戯れ」
「私はあらゆるもの」
「私は青空に浮かぶ雲」
「私は地を這う虫けら」
うーん、ミステリアス。皆なかなかの哲学者だね。共通しているのは、自分の思考や感情や自己イメージが私ではない、もっと動きのある、流れみたいなものが私だ、という考えだ。やはりカウンセラーは単に傾聴するだけの単純お馬鹿さんではないよね。良かった、良かった、一安心。
私が気に入っているのは、私とは「悩む人ではなく、悩みを観察する人」というテーゼだ。悩みやストレスに気づき、観察して、巻き込まれない余裕。問題や苦しみ、不安、怒りと距離をとり、冷静に客観的に問題を観察する姿勢と言える。そんなこと言っても、問題や悩みや苦しみはちっとも解消しないではないか? と思われるかもしれないが、おっとどっこい、これが実に効果的なケースが多いのだ。
実は、問題は解決しなくても、自分が抱えられる大きさになればいい。思考や感情が本当の自分ではなく、脳の反応を見つめている観察者、目撃者こそ本当の自分だと思い定めることで、問題は問題でなくなり、自分を翻弄したり支配したりしなくなっていく。むしろ自分のほうが感情や思考をコントロールできる、人生の主人公=主体者=自由という自覚と身構えができてくるのだ。私は高校生や大学生とのカウンセリングをしているが、「何のために生きるのか?」「生きる意味って何?」なんて実存的な深い悩みで相談に訪れる学生には、この「私は悩みを観察する人」という人生観について話し合うことにしている。たいていの学生は、それなりに納得して悩みのドツボに入り込まないで済むようになり、感謝されることが多い。
ここでは、私が尊敬する人達の素敵な言葉を紹介してみよう。私の座右の銘だ。
「人間は絶えず流れゆくプロセスであり、決して固定した静的な実在ではない。人間は絶えず変化し続ける川の流れのようなものであり、堅固な物体のかたまりのようなものでなく、一定量の特性をもったものでもなく、絶えず変化し続ける可能性の布置といったものである」
これは、前述した、カウンセリングの神様といわれているロジャーズの言葉だ。
「自我というのは他者との関わりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築される、ある種の<流れのよどみ>のようなもの」。
これは、思想家・内田樹の言葉。
「この人生で私達の求めているのは人生を理解することや私たち自身を理解することではない。自分の中にある生き生きと感じられるものと宇宙全体につながっているように思われる、より大きな生の感覚とが響き合う感覚を自分の内側に発見すること」
これは、ユング派の神話学者J・キャンベルの言葉だ。
こう読むと、「私=目撃者」という直観と相通じるものがある。サイコシンセシスという心理学の立場では「私は思考ではない」「私は感情ではない」「私は体ではない」「私とはすべてを意識している意志である」なんて、そのものずばりをしつこく繰り返させる。仏教では、そもそも「私なんてない。幻だ。私とは関係性の網の目に過ぎない」、「諸行無常、諸法無我。幻の私に執着するから苦しみが生じる」とまでのたまう。哲学者の池田晶子も「私=Nobdy、私とは何物でもない」と強調する。何者かになろうとするから、他者と比べたり、思い通りいかないことで、劣等感や苦しみが生じる。実際、私は事あるごとに呪文のように「私とはNobody何者でもない」とつぶやいている。相当変な人だね。
カウンセリングでは、実際問題として思考を二つに分けてとらえる見方が重要とされてきた。受け止め方を柔軟に変えようとする認知療法では、自動思考(習慣的思考=意思と関係なくポッポッと浮かんでくる思考)を柔軟な思考(選択的思考=意思)と区別し、ネガティブな自動思考を変化させようとする。
マインドフルネス認知療法やACTという新しい心理療法ではマインドトーク(心のおしゃべり)とマインドフルネス(気づき、純粋な意識、意思)を区別し、マインドフルネスの状態を心の本質ととらえる。身体感覚に焦点を当てるフォーカシングという心理療法では「私はここ」(Big I)と「問題はそこ」(small i)というように、自分と問題を切り離し、気づきや感じる主体(Big I)を本当の心と考える。
つまり、カウンセリングでは、相談者の健康な心=意思や気づき、観察者としての心に焦点を当て、主体性や客観性を育てること。荒れ狂う思考や感情や症状にとらわれない心を養うことで、回復や成長が可能になる。
私が気に入っているのは「まんじゅう理論」というあまーい美味しい考え方だ。誰の中にもカウンセラー=援助者とクライエント=悩みを抱えている者の二人が存在する。人間の中心=核(まんじゅうのあんこの部分)にカウンセラーとしての自分がいる。健康で愉快な観察者=人間の本質ともいえる部分だ。核の外側(まんじゅうの皮)、表面に近い部分に悩みや症状や苦しみを抱えたクライエントとしての自分がいる。なので、カウンセリングの目的は、クライエントの中のカウンセラーを育てることだ。うーん、 深いね。普通のカウンセラーは症状を何とかしようとあくせくする。しかし、表面の症状にばかり焦点を当てすぎると、核にある愉快で健康な自分を見失う可能性すらある。最近の私のカウンセリングはリソースフォーカス・カウンセリング(資源に焦点を当てる)=いいとこ探しによって、クライエントの中の健康で愉快な部分(まんじゅうのあんこ)に焦点を当てる、大甘のまんじゅう心理療法になってきた。
もちろん、このメソッドは「私=悩みを観察する人」へと繋がっていく。
筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。