第4章 愉快を巡る冒険 その2 愉快に生きるための時間=未来が過去を作る?

心にとって時間が大きな作用を及ぼすのは常識のように思われている。ほとんどの相談者は過去にとらわれ、後悔し苦しんでいる。また、来るかどうか分からない未来に不安を抱き心配しながら悶もんとして生きている。では、過去とはいったい何だろうね? 実は、過去は客観的に確固として存在しているわけではなく、記憶の恣意的な総体と考えられているんだ。ある体験は記憶として残るけど、ある体験は記憶に残らない。また、潜在意識に蓄えられて何かのきっかけで突然浮上してくる記憶もある。そして記憶はなんと書き換えられることだってある、というから怖い。記憶すら物語なんかいな?
実際、父親からの性的虐待を受けたと訴えた娘に対して、偽りだとして娘の精神科医を父親が訴え裁判で争って勝訴した例がアメリカで報告されている。現在の症状がこれほど激しいのなら幼少期に親からの性的虐待があったに違いない、という枠組みを持ったフロイト系の精神科医が面接を続けると、そのような事実があったという偽の記憶が作られてしまうことがありうるのだって。ある意味、人間の能力は凄いぜ、あな恐ろしや? だよね。記憶は精神科医の都合のいいように作りかえられてしまう面があるのだからね。
さらに、極端な愉快な説もある。
実存主義心理学のロロ・メイは、何と「未来が過去を作る」とさえいうからびっくり仰天だ。常識と正反対だね。もしも明確にこうなりたいという未来が設定でき、その目標に向かって日々努力すれば、その未来にふさわしい過去の記憶が浮上してくるというんだ。過去はポジティブに再構成され、ある意味では創造されるのだ。この仮説はなかなかに愉快だ。生きていく上での、ささやかな希望につながるよね。
まあ、時間に関しては過去にも未来にもとらわれず、「今ここ」をしっかり愉快に生きるのが基本中の基本だ。そして、できるなら我々もペテルと同じように、安心できる場で、自由に物語=妄想を作り、ユーモアと笑いに包まれて愉快に生きたいものだ。そのためにも、愉快に繋がる人生哲学=物語が必要だ。私が個人的に好きな、愉快に生きるための物語は、「人間皆ちょぼちょぼ」「人生八勝七敗が丁度いい」「すべては移り変わる=諸行無常」など、ごくごくほんわり柔らかな物語だ。
身体も心も人間関係もまんじゅうのように、ほどほどに柔軟に。これこそ、不愉快をばねに愉快に生きる秘訣なり。
その3 エロスとタナトス
フロイトといっても、今や若い人はほとんど興味がない、存在すら知らない、忘れ去られた過去の有名人かもしれない。心理療法の世界でも、フロイト流精神分析はやや時代遅れのこんこんちき、という感触がある。しかし、もともと彼を評価してきたのはアーチストや小説家やミュージシャンなどのクリエーターたちだった。人間の深い闇を掘り下げたフロイトの世界観が、とことん人間を探査・考察・表現してきたクリエーターにフィットしたのは自然といえば自然のなりいきだったろう。
彼の功績は、無意識の発見とよく言われる。どちらかというと、フロイトは性悪説で、ほうっておくと人間はエロス(他者と深く繋がりたい、という愛や性への衝動)やタナトス(死への欲動=破壊衝動)に支配されてしまう、哀れなちっぽけな存在だと喝破した。いくら近代合理主義が発展しても、人間の中には主体的でも合理的でもない、どろどろとしたものが渦巻いている。地下の怪しい無意識の領域に、と主張したんだね。
恐らく、人間の中には他人を支配することで全能感や喜びを感じる何か脳の領域みたいなものがあるんだろうね、きっと。半端ない激しさで人を思い通りに暴力的に支配できる体験を1回でもすると、不安や空虚感を埋めるだけでなく、全能感みたいなものが出てくるから、快感なんだろう。どんな卑劣な手段を使っても、思い通り他者を支配したいという欲望=快感が強すぎて、哀れにもその欲望の奴隷になってしまうと考えられるよね。もちろん、多かれ少なかれ、思い通りにしたいというこの支配欲は誰にでもあるだろう。国家とは恐怖の共同幻想だと吉本隆明が述べたのも、この暴力的な支配欲と逆に支配されたいという無意識の奴隷欲のなせる業かもしれない。
もちろん、人には善良で誠実で暖かい親密さが必要だし、それなくして人類はここまで生き延びてはこなかったのは前述したとおりだ。私の尊敬する中村哲さんという医者は世界が見捨てたアフガニスタンで、飢えと疫病を防ぐために井戸を掘ったり、水路を建設したりした凄い人だったけど、無残にもテロリストに殺されてしまった。彼が残した言葉に「それでも、人は愛するに足り、誠実さは信じるに足る」という一節があるけど、確かに庶民のささやかな生活レベルでは、その言葉は真実なんだろうね。「それでも」という留保の中に彼の苦渋がよく現れているけど。
でも、もちろん根源的な光のほう。無意識の核になるポジティブな側面、まんじゅうのあんこに目を向けて愉快に生きようというのがこのエッセイのメインテーマだ。私は水俣病患者への飽くなき寄り添いと権力への抵抗で有名な石牟礼道子さんの世界にささやかな希望を見いだしてきた。無力な自分にできるのは、「患者さんと共に悶えるだけ」という石牟礼さんの思想、生き方は、カウンセラーとしての私の原点にもなっている。
彼女の文学的、思想世界は家族や村や社会や国家をやすやすと超えて、全宇宙的な表現につながっている。また石牟礼さんが虫や魚や猫などと自由にコミュニケーションできる(たぶん?)のも、通常の感覚では見えない世界が見えるのも、前述した胎児のときの宇宙的な記憶や回路が奇跡的に生き残っているからだろうと思う。そういう意味では、石牟礼さんの世界はアニミズムの世界なんだろう。あらゆるものの中に神=命が宿って呼吸し共振し合っている。自然や宇宙との親密性が極まってシャーマンのような感受性が豊かに息づいている。アニミズムは決して低級な宗教レベルではなく、無意識の核として普遍的なもの、究極のあんこのような気がする。近代という表層的な物語なんてはなから超越しているんだと思う。
「この世は生命あるものたちで成り立っている。この生命たちは有形にも無形にも、すべてつながり合って存在していた。赤んぼうというのはまず、言葉を知る前に、視覚と聴覚と、それから、見えない触覚の満を持しているおどろくべき全感覚で、他の存在について知覚しながら育つのである。(中略)この世と幼児とは、出逢いの最初からその縁を完了させてもいたのである。」(石牟礼道子自伝)
石牟礼さんの世界になつかしい原初的な感覚を感じるのも、無意識の核に「宇宙進化の記憶」があるからかもしれない。一方で彼女の世界に根源的な悲しみや恐れを感じてしまうのも、光と闇を含み持つ人間の業なのかな。根源的なエロスとタナトスだよね、
そういえば、脳の「方向定位連合野」と名付けられた頭頂葉の領域の活動が、感覚入力が遮断されることにより特別なモード、自他の境界がなくなることで宗教的体験が生じるというデータがある。究極のまんじゅうのあんこ=神を見る仮説で、なかなかに興味深い。我々の中には、天使もいれば悪魔もいるというわけだ。
恐らく「善と悪」「光と闇」「天使と悪魔」って二分法できっちり分けられないんだろうね、人間は。我々に必要なのは、まずもって我々の内部に「天使と悪魔」がぐちゃぐちゃと混在することに気付き、認め、観察すること。私=観察する人だね。あとはこれまで述べた、身体から心へと繋がる多彩なアプローチをして、悪魔を手なずけ天使に変える愉快な錬金術の達人になることなのだろう。


筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。