心にとって時間が大きな作用を及ぼすのは常識のように思われている。ほとんどの相談者は過去にとらわれ、後悔し苦しんでいる。また、来るかどうか分からない未来に不安を抱き心配しながら悶もんとして生きている。では、過去とはいったい何だろうね? 実は、過去は客観的に確固として存在しているわけではなく、記憶の恣意的な総体と考えられているんだ。ある体験は記憶として残るけど、ある体験は記憶に残らない。また、潜在意識に蓄えられて何かのきっかけで突然浮上してくる記憶もある。そして記憶はなんと書き換えられることだってある、というから怖い。記憶すら物語なんかいな?
実際、父親からの性的虐待を受けたと訴えた娘に対して、偽りだとして娘の精神科医を父親が訴え裁判で争って勝訴した例がアメリカで報告されている。現在の症状がこれほど激しいのなら幼少期に親からの性的虐待があったに違いない、という枠組みを持ったフロイト系の精神科医が面接を続けると、そのような事実があったという偽の記憶が作られてしまうことがありうるのだって。ある意味、人間の能力は凄いぜ、あな恐ろしや? だよね。記憶は精神科医の都合のいいように作りかえられてしまう面があるのだからね。

その3 エロスとタナトス
 フロイトといっても、今や若い人はほとんど興味がない、存在すら知らない、忘れ去られた過去の有名人かもしれない。心理療法の世界でも、フロイト流精神分析はやや時代遅れのこんこんちき、という感触がある。しかし、もともと彼を評価してきたのはアーチストや小説家やミュージシャンなどのクリエーターたちだった。人間の深い闇を掘り下げたフロイトの世界観が、とことん人間を探査・考察・表現してきたクリエーターにフィットしたのは自然といえば自然のなりいきだったろう。
 彼の功績は、無意識の発見とよく言われる。どちらかというと、フロイトは性悪説で、ほうっておくと人間はエロス(他者と深く繋がりたい、という愛や性への衝動)やタナトス(死への欲動=破壊衝動)に支配されてしまう、哀れなちっぽけな存在だと喝破した。いくら近代合理主義が発展しても、人間の中には主体的でも合理的でもない、どろどろとしたものが渦巻いている。地下の怪しい無意識の領域に、と主張したんだね。
 恐らく、人間の中には他人を支配することで全能感や喜びを感じる何か脳の領域みたいなものがあるんだろうね、きっと。半端ない激しさで人を思い通りに暴力的に支配できる体験を1回でもすると、不安や空虚感を埋めるだけでなく、全能感みたいなものが出てくるから、快感なんだろう。どんな卑劣な手段を使っても、思い通り他者を支配したいという欲望=快感が強すぎて、哀れにもその欲望の奴隷になってしまうと考えられるよね。もちろん、多かれ少なかれ、思い通りにしたいというこの支配欲は誰にでもあるだろう。国家とは恐怖の共同幻想だと吉本隆明が述べたのも、この暴力的な支配欲と逆に支配されたいという無意識の奴隷欲のなせる業かもしれない。

 もちろん、人には善良で誠実で暖かい親密さが必要だし、それなくして人類はここまで生き延びてはこなかったのは前述したとおりだ。私の尊敬する中村哲さんという医者は世界が見捨てたアフガニスタンで、飢えと疫病を防ぐために井戸を掘ったり、水路を建設したりした凄い人だったけど、無残にもテロリストに殺されてしまった。彼が残した言葉に「それでも、人は愛するに足り、誠実さは信じるに足る」という一節があるけど、確かに庶民のささやかな生活レベルでは、その言葉は真実なんだろうね。「それでも」という留保の中に彼の苦渋がよく現れているけど。

 でも、もちろん根源的な光のほう。無意識の核になるポジティブな側面、まんじゅうのあんこに目を向けて愉快に生きようというのがこのエッセイのメインテーマだ。私は水俣病患者への飽くなき寄り添いと権力への抵抗で有名な石牟礼道子さんの世界にささやかな希望を見いだしてきた。無力な自分にできるのは、「患者さんと共に悶えるだけ」という石牟礼さんの思想、生き方は、カウンセラーとしての私の原点にもなっている。
 彼女の文学的、思想世界は家族や村や社会や国家をやすやすと超えて、全宇宙的な表現につながっている。また石牟礼さんが虫や魚や猫などと自由にコミュニケーションできる(たぶん?)のも、通常の感覚では見えない世界が見えるのも、前述した胎児のときの宇宙的な記憶や回路が奇跡的に生き残っているからだろうと思う。そういう意味では、石牟礼さんの世界はアニミズムの世界なんだろう。あらゆるものの中に神=命が宿って呼吸し共振し合っている。自然や宇宙との親密性が極まってシャーマンのような感受性が豊かに息づいている。アニミズムは決して低級な宗教レベルではなく、無意識の核として普遍的なもの、究極のあんこのような気がする。近代という表層的な物語なんてはなから超越しているんだと思う。

 筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。

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