私は、60年近く山に登ってきた。今でも老骨に鞭打って月に1~2度は登っている。
流石に歩くスピードは遅くなって、ヨチヨチ、トボトボだ。それでもゆっくりじっくり登っていくといつかは高みにたどり着ける。
かつては、冬とか岩とか志向して遭難もしたが、最近はもっぱら低山歩きだ。
美術は、長年の広告の仕事を通して、間接的に味わった。
最晩年は、都心の私立美術館や公立美術館の館長として直接体験もした。
「美術館は学芸にあり」と思い込んで学芸員の資格もとった。
今は引退して、勝手に「広告とアートのプロデューサー」と名乗って徘徊している。
「山とアート」は私の「ついの棲家」だ。

茨木猪之吉(1888~1944)をご存知だろうか?
小島烏水(日本山岳会 初代会長)を支えた山岳画家だ。
小島(1873~1948)は横浜正金銀行でアメリカ西海岸の支店長を務めた。
自らの浮世絵コレクション展開催の時、同じ美術館で、デューラーからピカソまでの西洋版画展を目の当たりにした。
以来西洋版画のコレクションは広がり、浮世絵とあわせて、900点あまりが横浜美術館に収蔵されている。

茨木は、大下藤次郎、高島北海、丸山晩霞、中村清太郎、石井鶴三、吉田博などともに 日本山岳会草創期のメンバーで、とりわけ、小島烏水の覚えがめでたく、 南アルプス荒川三山の初縦走など数々の山行をともにした。
1944年秋、穂高涸沢で紅葉を写生し、穂高岳山荘経由、白出沢沿いに飛騨側に下りた。
下りたはずだ。なのに、いない。
忽然と姿を消した。自殺なのか、遭難したのか、80年全く手掛かりのないままだ。
茨木は山岳画、風景画、静物画などをよく描いた。
小島烏水の名著「日本アルプス1~4巻」には必ず茨木の油彩画、スケッチが掲載されている。そのいくつかを紹介する。

なかでも、小島の人物像は多少デフォルメがあるが、特徴をよく捉えている。

油彩画はあまり残されていない。「穂高・涸沢の紅葉」が描かれていたらと残念でならない。

大下藤次郎(1870~1911)は美術関係者にはよく知られている。
東京国立近代美術館で「穂高山の麓」「穂高山の残雪」に出会った時には感動した。

青春時代の穂高での一挙手・一投足が甘酸っぱく思い出された。
水彩画教育に奔走し日本の水彩画の地位を確立した。雑誌「みづゑ」を刊行し 美術手帖(美術出版社、現在はCCCが経営)として今も残る。
小島を介して、茨木とも交友があったに違いない。
「穂高山の麓」は第1回「文展」に出品され喝采を浴びた。それを機に水彩画の道を極めていった大下。
一方、「穂高・涸沢の紅葉」は永遠に日の目を見ることができなかった。
これを起に、山と美術の世界から忘れられてしまった茨木。
小島烏水のもとに集った、2人の画家と2つの絵、奇縁だ。

ジョージ・マロリー、1924年、エベレスト北壁で行方不明になった。
75年後の1999年遺体は発見された。
「なぜ山に登るのか?そこに山(エベレスト)があるから」は有名な言葉だが、エベレスト登頂をなしたのかは謎のままだ。
彼が持っていたカメラは見つかっていない。
もし見つかれば、登頂の写真が残っていたのではないか?
夢枕獏はこの間の顛末を「神々の山嶺」に書いた。
1953年、1924年から29年後、エドモンド・ヒラリーは、シェルパ、テンジン・ノルゲイとともに、ついに登頂に成功した。
75年後に見つかったマロリー、80年経っても見つからない茨木猪之吉、この対比も面白い。

大下藤次郎に戻る。大下は「甲斐白峰」(北岳)を描きたいと念じていた。
小島の影響もあって「近く見るに西山峠、遠く見るには笹子峠、この2つが一番よいようである」と思い込み1909年11月西山峠に出かける。甲州鰍沢からの山行だ。
やっと峠に辿り着くと前方に新雪をまとった山が見えた」
「やった。ついに白峰(3192m)だ」と感激のあまりスケッチの筆が走った。
やがて、見えた山は白峰ではなく荒川三山のうち悪沢岳(3141m)と知る。
この時のスケッチをもとに、油彩画「西山峠」が残る。大下の代表作の一つだ。

後日譚「私の実家は西山峠の近くにある。登ってみた。西山峠は地図になく、足馴峠がある。
1922年、朝香宮殿下が登られ命名したとされる。今は廃道で、木々が生い茂り、眺望はさほど良くない。子供の頃から西山峠という呼び名は聞いたことがない。足馴峠が西山峠なのか定かではない」
一行は反対側の西山温泉に下り、しばらく滞留したが天候に恵まれず、待望の白峰は描けていない。

*このコラムでは、日本の近・現代美術から、「埋もれてしまった作家」「これから世に出ようとする若手作家」に焦点を当てて書く。
いつまで続くか分からないが老骨・頑迷な美術愛好家の密やかな楽しみを吐露していきたい。
「笑止千万」とお付き合い頂ければ幸いです。

次回は、「君は隅田川に消えたのか? 天才版画家、藤牧義夫」の予定。


– 筆者 
若林 覚 プロフィール –

アートプロデューサー。元サントリー宣伝事業部長、文化事業部長、サン・アド社長。
サントリー美術館副館長・支配人を経て練馬区立美術館館長。
著書に「私の美術漫歩 広告からアートへ、民から官へ」(生活の友社)
共著に「ビジネス感性の時代」(講談社)など。