寺田至(1951-2014)の作品に初めて出会ったのは2024年の不忍画廊(日本橋)だった。
「知られざるモダニスト寺田至 展」が開催されていた。

見た途端、「あ!ここに自分がいる」と思った。
ノスタルジーを感じた。音楽が流れていた。
絵の内側にも、外側にも、自分がいた。
以来「寺田至、推し」である。
2025年画集「Life」(肖像画)、2026年「Still Life」(静物画)が出版され、記念の展覧会が開催された。全国6箇所に巡回し、更に2027年には「Landscape」(仮題)(風景画)を予定しているという。

画廊で由紀子夫人に会い、思わず「作品に魅入られた。美術コラムを書いている、インタビューに伺いたい」と申し入れた。
3月とはいえ、冷たい雨が降る日、川崎、中野島のアトリエを訪ねた。
それが本稿の始まりである。  

寺田は1951年愛媛県西条市生まれ、私(1949生)と同年代である。
同時代の空気を吸ってきた、共感と羞恥心がある。
7人の兄弟姉妹の末弟。秀才一家だった。父を5才の時失い、苦労が絶えなかった。
幼少時代から絵が好きで、昼間の光の中で、絵を描きたいと敢えて夜間高校に通う。
大阪芸大に進学した。特待生だった。
卒業後、東京芸大大学院で聴講生として寺田春弌から「絵画組成」を習う。
ウイーン美術アカデミーへ願書と作品を送付、入学を許されるが経済的理由で断念。
以来、中学、高校の美術教師として生きてきた。
生徒たちからは好かれ、学校からも専任を勧められたが、
「専任は嫌だ、縛られる、自由がいい、好きなことしたい、絵を描きたい」として非常勤で通す。  
画壇、団体とも距離を置き、身近な「ひと、こと、もの、けしき」を描き続ける。
アトリエに、様々な支持体のキャンバスを回廊のように並べ、工夫した画材で、一挙に描きあげる。
だから、描かれている対象の息吹が見える、立ち昇る、歩きだす。
派手な原色は使わない。セピア調でペールカラーである。
だが、その底に色が潜み、主張してくる。
1980年頃から、画廊で個展を中心に活動するが「指図されるのは嫌だ、自由でいたい」と90年代前半でやめてしまう。300点を超える作品がアトリエに残る。
2024年、没後10年を機に、30年の空白期間を経て甦る。

不忍画廊、荒井裕史氏の慧眼と努力、
巡回した全国6箇所の画廊に喝采をおくる。

寺田は趣味人である。由紀子夫人談「至は、<丸くて機械で動くものが大好きだ>と言い、欧米の古いカメラ、管球式のオーディオ機器、マニュアル運転の車に並外れた興味を持ち、それを手にして楽しみました」「ある時、散歩の途中、車のディーラーの展示場に寄りました。一番奥に赤いポルシェがあったんです。いっぺんでそれが気に入り、あちこちで工面して手に入れました。売り物じゃなかったようなんですけどね・・・・」
「音楽もクラッシク、カンツオーネ(イタリアにスケッチ旅行に行ったことがある)、ジャズなどよく聴いた。絵を描くとき、BGMは流さなかった。

絵は絵、音楽は音楽だ、でないと集中できないと言っていた。ニュー・フォークは定かではないが、陰で聴いていたかもしれない」

寺田の一連の作品群に接したとき「井上陽水がいる」と思った。
サントリーの宣伝部時代、何かと陽水と縁があった。
角瓶のCM(1986)に「いっそセレナーデ」をウイスキー・ローヤルのCM(1991)に「TOKYO」を起用した。
角瓶のCMには、本人も登場「角は、なんつうか、心のゴハンです」のナレーションを添えた。
赤玉パンチのCM、ワインレッドの心(1984)の歌詞は陽水だ。玉置浩二と安全地帯が歌い大ヒットした。

陽水の音楽は、曲もいいが、歌詞がまたいい。さわりを紹介する。
「遠い想い出、夢のあいだに、浮かべて泣こうか・・・さみしい、そして悲しい、いっそやさしいセレナーデ」(いっそセレナーデ)
「銀座へ、はとバスが走る、歌舞伎座をぬけ、並木をすりぬけ・・・」(TOKYO)
「夏が過ぎ、風あざみ、誰のあこがれに、さまよう、8月は夢花火、私の心は夏模様」(少年時代)など、絵が浮かびあがる。
寺田だったら、これをモチーフにどんな絵が描けるのだろうか、
少年時代の風あざみはどんな表現になるのだろうか。

寺田と似た作風のアーティストに、松田正平(1913-2004)清宮質文(1917-1997)
有元利夫(1946-1985)山中現(1954-)がいる。いずれも無邪気で自由奔放な作風だ。
思わず童心に帰る。
寺田は、とりわけ、有元に魅かれたようだ。似たテイストの肖像画が何点もある。


寺田と同様、画壇や団体に距離をおいたGoing My Way型の作家に小林猶治郎(1897-1990)、品川工(1908-2009)中村忠二(1898-1975)がいる。
私の練馬時代に展覧会を開催した。
小林猶治郎展(2013)は、「ひとり自適に、油彩画を描き続けた。画家つきあいもせず、名声にも無頓着、ほとんどの作品がアトリエに残る。展覧会などこっ恥ずかしい」という風流遊戯な猶治郎に光を当てた。
品川は版画やモビールなど小さな造形物をつくり、中村はいたずら書きとも思える詩画集を著した。


いずれも、作品づくりが「好きで、好きでたまらない」という思いにあふれている。
まさに、「寺田至的世界」ではなかろうか。

現代作家、コノキ・ミクオ(1937-)を紹介する。キュートでおかしげな立体物をつくる。
創作欲と展示欲が昂じて、1998年千葉県匝瑳市松山に「松山庭園美術館」を開設した。
美術館を囲む野原や森に、忽然と置かれる造形は、メルヘンを通り越して「妖しの世界」にいざなう。詩と絵画にもたけている。
一度は、訪れてみたい、知る人ぞ知る美術館だ。


由紀子夫人は女子美の短大を出て、油彩画を描いた。

至とは芸大大学院の講習会で出会って意気投合した。
一緒に個展を開いた事もあったが、至の才能にほだされ、「この人を支えよう」と思った。
たまたま、湯島のギャラリー「羽黒堂・木村東介」の1階上のデザイン事務所に勤め、それが縁で、至の没後、展覧会を開催した。

羽黒洞は1932年創立の老舗美術商である。肉筆浮世絵、大津絵、近・現代の油彩画などを扱う。ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻が訪れ、曾我蕭白などの日本画を購入したことで知られる。
長谷川利行や斎藤真一のパトロン的存在でもあった。
1992年、創業者・木村東介逝去後、長女・木村品子が継承した。
羽黒堂閉廊後の今は、日本橋で不忍画廊を経営する、品子の甥・荒井裕史がその命脈を保ち、一層拡大している。
そんな縁での「寺田至 展」である。「至の人と作品」を一人でも多くの人に知って欲しい。

ところで、昨今、戦後の前衛的女流画家展「アンチ・アクション」が注目されている。
女流に焦点を当てたのは、大いなる前進だが、日本美術界を支えたのは、ともに作品をつくり、世に問うてきた美術家夫妻の貢献も大きいのではないか。
「夫妻展」開催を期待する。リクリューペアもハンバートハンバートもコンビネーションが感動を呼び世の中を変える。

思いつくままに挙げてみる。
・有元利夫・容子   毛利眞美・堂本尚郎  白髪一雄・富士子  田中敦子・金山明
・浜口陽三・南桂子  若林奮・淀井彩子   芥川沙織 芥川也寸志(間所幸雄)
・若江漢字・栄戽   上野リチ・伊三郎   三岸好太郎 節子  奥田元宋・小由女
・オノ・ヨーコ ジョン・レノン  篠原有司男・乃り子  板倉鼎・須美子
・宮脇晴・綾子    山口晃・梅村由美   平山郁夫・美知子
・寺田至・由紀子

 

寺田は、海外のアーティストからも影響を受けた。
ピカソ、ブラック、デ・クーニング、マーク・ロスコ、ムンク、キリコ、ゴーキー、
ホックニー、ドニ、シダネル、ヴィヤール、モランディ、(写真家)ケルテス、ブレッソン
とりわけ、ナビ派やアンティミストと言われる身近な題材を描いた画家、
巨匠でも、デビューしたての頃の初々しい作品に魅かれた。

最後に、「現代ただごと短歌」をご存知だろうか。チャットGPTで検索してみる。
「日常の何気ない風景や感情を装飾や比喩を極力排して
ありのままの言葉で(口語で)詠むスタイル。奥村晃作(1936- )が第一人者。歌人・今村聡(1983- )は<ただごと歌110首 奥村晃作のうた>(六花書林)を著した」とある。

いくつか紹介する。
・「次々に走り過ぎゆく自転車の運転する人みな前を向く」
・「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」
・「学校の玄関傍の用水に氷が敷きて金魚ひそめり」

まさに、「寺田至の世界」である。
だとすると、寺田は「現代ただごと絵画」の第一人者だ。

                                  (敬称略)

– 筆者 若林 覚 プロフィール –

アートプロデューサー。元サントリー宣伝事業部長、文化事業部長、サン・アド社長。
サントリー美術館副館長・支配人を経て練馬区立美術館館長。
著書に「私の美術漫歩 広告からアートへ、民から官へ」(生活の友社)
共著に「ビジネス感性の時代」(講談社)など。

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