茅ヶ崎市美術館で「生誕100年 牧野邦夫―その魂の召喚」(3月31日―6月7日)が開かれるという。

練馬区立美術館「牧野邦夫―写実の精髄」(2013年)以来13年振りの大回顧展でおっとり刀で駆けつけた。

牧野は、姉たちが運営する「マッコール洋裁学園」(茅ヶ崎駅前)の開校に伴い、小田原から転居し、10年にわたって学園のサポートをした。

茅ヶ崎市美術館とは少々縁がある。
何度か「青山義雄展」が開かれた。パリ留学時代に、マティスと交流しマティスから「この男は色彩を持っている」と評価された。帰国して茅ヶ崎に住んだ。
青山夫人の妹が山崎隆夫・夫人で、その縁で山崎も茅ヶ崎に移った。
山崎は、戦後の初代サントリー宣伝部長で、広告制作会社サン・アド社長も努めた。
青山と同じ国画会の会員で、佐治敬三(サントリー2代目社長)の絵の師匠でもあった。
山崎のサントリー時代の同僚が開高健で、彼もまた茅ヶ崎を終の棲家にした。
開高は、サントリー宣伝部コピーライター時代、1958年「裸の王様」で芥川賞をとった。
大江健三郎の半年前だ。
茅ヶ崎市美術館では「山崎隆夫―富士と抽象」(2001)
「開高健とトリスな時代―生誕80年 人間らしくやりたいナ」(2010)
イラストレーター・柳原良平の「ごきげんな船旅」(2024)が開催された。
開高宅は、「茅ヶ崎市立 開高健記念館」になっている。
私もサントリー宣伝部長とサン・アド社長を務めた。
開高とは最晩年、CM、TV番組、ミステリー文学賞などで謦咳に接した。

私は、30代の半ば、作家の井上靖先生(1907-1991)と何度か旅行したことがある。銀座の文壇バーで知り合って、誘われるままについていった。
氏は、毎日新聞大阪の美術記者としてスタートした。

旅の途中、「レンブラントの自画像―小説家の美術ノート」(1986,中央公論社)という本を頂いた。「若林覚様 井上靖 恵存」の署名がある。

1981年、ハンブルグ、アムステルダムを中心にドイツ、オランダの田舎を廻った。何か所かでレンブラント(1606-1669)の自画像、肖像画を見た。 
「レンブラントはたくさんの自画像を描いている。何年か前に、自画像だけを年代順に追ってみたいと思った。また、自画像ばかりでなく、母親、妻、息子及びその周辺の親しい人たちの肖像画をたくさん描いている。 
これまた、年代順に追いかけていくことができたらと思った。
私にこのようなことを思わせるのも、レンブラントの生涯が、波瀾を極めたもので、その時期、時期で、幸せなレンブラントも居れば、失意、絶望のレンブラントも居るからである」
その旅で、とりわけ心ひかれたのは、レンブラント没年の「自画像」(1669、オランダ、ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)と「ある家族の肖像」(1669、ドイツ、ブラウンシュバイク、ヘルツォーク・アントンウルリヒ美術館蔵)である。

「自画像」は1668年、最愛の27歳の息子、ティトゥスを失ったその翌年の作である。
失意・絶望の晩年、それに追い打ちをかけるような息子の死。「不幸とか淋しさというものを乗りこえた、いや、そういったものに些かも動じない、大レンブラントがここに居る」
「家族の肖像」は、「残されたティトウスの妻マグダレーナと義兄とその子どもたちを描いている。静かな幸福に浸っている家族団欒のひと時だが、マグダレーナの表情の何と悲しげであることか」と書いている。
この絵の後、10月4日レンブラント没、63歳。17日、マグダレーナ没、28歳。
悲しみの予兆を写しとったのかもしれない。
「家族を失ったものの悲しみ。そこから立ち上がっていく人間の叡智、強さ」は
「星と祭り」(1972)以来脈々と流れている氏のテーマの一つである。氏は、この2つの絵の前で、暫し立ち去れなかったという。

牧野は、レンブラントに憧れ、少しでもレンブラントに近づきたいと念じ続けた。
レンブラントを先生に見立てた「まぼろしの往復書簡」も度々交わすほどの熱狂で、画壇や団体など目もくれず、独自のリアリスムを追求していった。
「レンブラント30歳の頃の絵に、自分は60歳ぐらいになったら、追いつけるのではないか。すなわちスタートが30年遅れているわけだ。
レンブラントのような絵を描けるようになるのには、自分は63歳で死んだレンブラントより30年長く生きなければ到達しないだろう。だから90歳過ぎまで生きねばならない」(牧野邦夫会話メモより、1978年頃)と言い残しているが、レンブラントより若く61歳で早逝した。

葛飾北斎は75才の頃、「富嶽百景跋文」で、「100才で神妙の域に達し、110才で1点1画が生きているようになる。あと10年、5年の命あれば、真の絵師になれる」と記したが90才で没した。

「牧野が、生き永らえていたなら、どんな絵を描いただろうか・・・・」                 代表作「海と戦さ(平家物語より)」に勝る沢山の歴史画や物語絵が見たかった。
「未完成の塔」は、どこまで伸びていっただろうか・・・・。
「バベルの塔」を超えただろうか。

牧野の作品には、自画像が多い。牧野邦夫・夫人、千穂さんにどうしてこんなに自画像が多いのかと聞いたことがある。

夫人は「勿論、レンブラントに憧れたせいもある。が、何よりも困窮していた。モデルが雇えなかったのだ」とのことであった。
そのモデルも、「憂羅」以外は、殆ど「千穂」だ。
「千穂」も牧野の心のうちを写した「牧野の自画像」ではなかったか。

小説家「原田マハ」の最近作に「晴れの日の木馬たち」がある。

そこに登場する絵が「マティス嬢の肖像」である。大原孫三郎が、児島虎次郎に委嘱してフランスから持ち帰った名画の中の一枚だ。

倉敷美術館が出来る前の「現代仏蘭西名画家作品展覧会」(倉敷文化協会主催)で公開された。
倉敷紡績の工女上がりの作家、「山中すてら」は、持ち帰ったマティス嬢の絵葉書を机に貼り、事あるごとに、見つめ、励まされ、小説の腕を磨いていった。
「この絵は、マティスにしか描けない絵だ。色はマティスの色、描かれている人物はマティスが愛するマティスの娘、彼にしかできない表現、彼にしか生み出せない世界」
「絵の中の娘は、生き写しなどではなく、生きている」(晴れの日の木馬たち文中より)
このマティス嬢が、千穂夫人に似ているのである。
牧野も千穂を見つめ、励まされ、レンブラントに近づこうとしていったのではないか。

ところで、殆どの公立美術館には、美術品の購入予算がない。
7年にわたって、練馬区立美術館長を努めたが、1点だけ購入した作品がある。
それが、牧野邦夫「雑然とした部屋(絶筆)未完成」である。

以下は、区の上層部に対しての、私の具申である。
「牧野は、知る人ぞ知る画家です。ですが、最近の日本美術全集では、戦後日本美術を代表する実力派として取り上げられています。今まさに光が当たろうとしています。
雑然とした部屋は、横たわる女性のヌードに、時代を超えた人物像、怪しげなぬいぐるみ、啄む小鳥、北宋絵画の図録が配されるなど荒唐無稽な絵画ですが、オーラを発しています。
きっとメジャーになります。是非とも購入して頂きたい」
かくして、練馬区立美術館所蔵となった。他に4点の寄贈や、多数の寄託もあり、他に類を見ないコレクションを形成した。今回の展覧会にも多数出品されている。


最後に、私には絵ごころもないし文才もない。自画像は描けないし、書けない。
練馬区立美術館在勤中に、鹿島茂コレクション「モダンパリの装い」展(2013)を開催した。
それを見た古い友人が「あんたの自画像を見た思いがする」とメールを送ってくれた。
シャルル・マルタン(1884-1934)のイラスト「クライアント(広告主)」について触れていた。

「20年前のあんたは、まさにあのイラストのように小太りで、いかにも品性のない、いやらしい顔をしていた。巨額の広告費を背景に居丈高だった。
1998年には、<その年広告界で最も活躍した人に与えられる人間賞>という触れ込みの日本宣伝賞松下(幸之助)賞を受賞して得意の絶頂にいたようだが、それって要は、<広告をたくさん出したで賞><しかも会社の金で賞>だよね。
それに、隣りにあったワイン・テースティングのイラスト、ソムリエでもないのに知ったかぶりして、仕草だけ一人前。ワインの味、香り、深みなど分かりもせず、本当に鼻につく。

マルタンのイラストに触発され、自戒をこめて率先して展示したとしたら進歩だ。
親しい友人とはいえ、何とも葉に衣着せぬ物言いで、2つの作品を見るたび、全身ヒリヒリした。

井上靖先生が存命だったら、レンブラントに憧れた牧野邦夫の自画像に何と言うだろう。
それにマルタン作の私の自画像とその後の生き様にはなんと?

                                  (敬称略)

– 筆者 若林 覚 プロフィール –
アートプロデューサー。元サントリー宣伝事業部長、文化事業部長、サン・アド社長。
サントリー美術館副館長・支配人を経て練馬区立美術館館長。
著書に「私の美術漫歩 広告からアートへ、民から官へ」(生活の友社)
共著に「ビジネス感性の時代」(講談社)など。

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