美術裏散歩2 天才版画家・藤牧義夫 「君は隅田川に消えたのか」
美術裏散歩1では穂高に消えた茨木猪之吉について書いた。
茨木は1944年穂高に消えた、以来80年見つかっていない。
藤牧は1935年、多分、隅田川に消えた、以来89年見つかっていない。
茨木56才、藤牧24才の時である。
「君は隅田川に消えたのか ―藤牧義夫と版画の虚実」は、ノンフィクション作家、駒村吉重(1968年~)の書(2011年講談社)である。
駒村は「ダッカに帰る日」で2003年第1回開高健ノンフィクション賞を受賞している。
開高は芥川賞作家、サントリー宣伝部出身。
私は、アラスカやモンゴルを舞台にした釣りの紀行、TV番組、CM、サントリーミステリー大賞などで形骸に接した。
今でも12月8日の命日には「開高忌」を主宰している。
藤牧のことは、聞きかじりで知っていた。
故郷・館林での「生誕100年藤牧義夫」展(群馬県立近代美術館)にも出かけている。
開高つながりの著者で、ミステリアスなタイトルに惹かれ、早速手にした。
本の帯まわりを紹介する。
「美術界のミステリーを描く長編ノンフィクション 美術評論家洲之内徹が絶賛した藤牧義夫 その消息はいまも不明で、作品にはさらに大きな謎が残る藤牧生誕100年、絵巻と版画に秘められた怪事を追う」
藤牧は、1911年群馬県館林に生まれた。
祖先は甲州藤巻村(現中央市)をルーツとし、代々秋元家に仕えた。
秋元家も一時甲州谷村藩(現都留市)を治めた。
秋元家の転封とともに館林に来た。
父は地元の小学校の校長を務めた。
家産が傾き、上京し隅田川沿いに住んだ。
書画好きの父の影響もあってか、染色の図案家になった。
やがて、版画の面白さに目覚め、創作版画を始める。
小野忠重(1909~1990)主宰の「新版画集団」に加わり、様々な作品を発表していった。
創作版画と新版画の違いは何か?私の理解では、作者が、自画、自刻、自摺りまでするのが創作版画、それに対して、従来の浮世絵と同様、絵師、彫師、摺師の分業体制で生まれるのが新版画。
渡辺庄三郎が主な版元だ。
ここで言う「新版画集団」は、正確に言うと「新・創作版画集団」なのではないか?ともすると自己陶酔的な創作版画に対して、より大衆的・革新的な版画を求めての新版画宣言ではなかったか?
藤牧の版画作品をいくつか紹介しよう。
代表作品は、何と言っても、「赤陽」(東京国立近代美術館)であろう。
一気呵成の彫りの深さ、鋭さ、骨太の線、光と影のコントラスト、夕陽の赤の色づかい。
藤牧の特徴が凝縮されている。
ところが、その「赤陽」が2つある。サイズが違う。構図も微妙に違う。
もう1点は、小野忠重新版画館にあるという。真贋は闇の中だ。
他にも「給油所」「井の頭」「月」「鉄の橋」「御徒町駅」「ENOKENの図」が挙げられる。
没後40年を経過した1978年、初めて藤牧の遺作展が開かれた。
開いたのは銀座の画廊「かんらん舎」を経営する大谷芳久である。
大谷は若くして藤牧作品に魅入られ、研究と収集活動を行う。
展覧会は館林にも巡回し、主な作品は東京国立近代美術館に買い取られ、成功した。
小野は藤牧より2才年上。81歳まで生きた。
現代版画界の重鎮で、戦前の一時期プロレタリア美術にも凝っていた。
版画史や浮世絵の研究者でもあり、紫綬褒章も受賞している。
藤牧が行方不明になる最後に会った人物でもある。
「浅草の部屋を引きはらったといい、大きな風呂敷包みを2つドサリとおいてこれをあづかってくれという。それまで身辺にあった版画ひと山と、あまり多くもない読み物・・・・・。そしてききとりにくい小声で、私や新版画集団の友人に対して、すまなかったとか、ありがたかったとかくりかえす。・・・・・・。彼が去ってしばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあってハット気がついたのである。「おしい死であった」と・・・・・。彼について雑文を書いた戦後に、館林の生家に妹さんの夫婦を訪ねた。捜索願も空しかったということばで、仏壇を見ると位牌には、彼の法号と命日が私の家から消えたその日をのこしていた。」(小野忠重 回想の藤牧義夫)
小野宅にはたくさんの藤牧作品と版木が残された。
藤牧作品には後摺りが多く、版木には改ざんがあり、できた作品には加筆もあるという。
「おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっているといまも友人たちは信じている」から、作品はぞんざいに扱われたのではないか?
最後に、藤牧の畢生の大作「隅田川両岸絵巻」(東京都現代美術館)を紹介したい。
全4巻、全長60mに及ぶ。隅田川両岸の風景、風物、生活を描く。
筆と墨で淡々とつづる白描図。
葛飾北斎の「隅田川両岸景色図巻」(すみだ北斎美術館)は716cmの肉筆浮世絵。
白描、色絵の違いはあるにしても、藤牧作品の長さと繊細さに圧倒される。
これが、「家の重荷、病身、早世の画家・佐伯祐三への憧れ、自虐的な厭世感、墓場のイメージで自ら埋葬するようすをさらす、フラフラと右翼宗教団体(日蓮宗国柱会)に出入り、気の弱い、混迷するその日暮らし、苦行僧の狂熱」(小野忠重)を背負っている青年の仕事だろうか?それとも、全てを出し尽くし、描き終わったからこその自殺だったのだろうか?同時期に生きた作家に棟方志功(1903~1975)がいる。
棟方は油彩画でスタートした。
「わだばゴッホになる」と言って研鑽していたが川上澄生(1895~1972)の版画「初夏の風」に感動し、版画に転向する。
やがて、サンパウロやベネチアのビエンナーレで版画大賞を取り国際的な版画家として活躍する。
もし、藤牧が生きていたらと、残念でならない。
*余談だが、私と藤牧とはいくつか縁がある。ともに山梨(藤巻村と身延町)をルーツとすること。
日蓮宗(鴨川大本山清澄寺と総本山身延山久遠寺)であること。館林藩秋元家とのつながり(秋元家に仕えた藤牧家と15代和朝氏の弟・恒朝氏と友人であったこと)。畦地梅太郎とのこと(藤牧は数少ない友人、畦地にENOKEN図を送っている。畦地が山の版画家であること)。開高健とのつながり(第1回開高健賞の駒村吉重とサントリー宣伝部OBの開高と幾多の仕事をともにしたこと)*縁は面白い。無理矢理にでも縁を見つけて楽しんでいる。
てなわけで、次回は「開高健とカメラマン高橋曻」の予定。
(敬称略)
– 筆者 若林 覚 プロフィール –
アートプロデューサー。元サントリー宣伝事業部長、文化事業部長、サン・アド社長。
サントリー美術館副館長・支配人を経て練馬区立美術館館長。
著書に「私の美術漫歩 広告からアートへ、民から官へ」(生活の友社)
共著に「ビジネス感性の時代」(講談社)など。