美術裏散歩13 「私流 三井寺物語」 (光信の襖絵、フェノロサの墓、新羅明神の坐像)
2008年、サントリー美術館で国宝・三井寺展を開催することになった。
調査やら法要で、度々三井寺を訪れた。
学問所だった「勧学院」で、狩野光信の襖絵を見た。父・元信、息子・永徳の影に隠れた感があるが、大和絵の伝統を取り入れた繊細優美な画風は人の心を和ませるものがある。没後400年にあたり、光信の魅力と狩野派に与えた影響をみようというものである。


勧学院を後にして、とりわけ高台にある法明院に向かった。琵琶湖を一望にできる。
その脇道をちょっと入ったところにフェノロサとビゲローの墓があった。
何故こんなところにと驚き、感動した。

フェノロサは、1878年(明治11年)大森貝塚を発見したモースの推薦で来日、東大で哲学、政治学を教える。日本美術の価値を再発見、研究・収集に努めるとともに、
美術教育、美術行政に関わる。法隆寺夢殿を開け、岡倉天心とともに救世観音像を調査した。直木賞作家永井紗耶子は、その顛末を「秘仏の扉」(千年の畏れを超え、開いて守れ)で書いた。(2025.1 文藝春秋)

ビゲローは、ボストンでモースの日本に関する講演に感銘を受け、1882年(明治15年)に来日。富豪の貿易商の息子で外科医。
フェノロサが組織した鑑画会(狩野芳崖、橋本雅邦など日本画家たちの会)をパトロンとして支えた。
時あたかも、西洋崇拝や廃仏毀釈の真只中、困窮を極める古社寺の宝物を調査の傍ら、購入。大阪の古美術商「山中商会」に残る逸話「売りに出た美術品を店内に所狭しと並べ、番号と値段を付けて、片っ端から買い捲る。その場で荷造りしボストンへ送った」
(三井財閥総帥団琢磨 談)
それが、ボストン美術館日本美術コレクションの基礎となった。
貴重な日本美術を流出させたとも、お蔭で体系的な研究がなされ、散逸、破損されないですんだ恩人とも言われている。
その二人の墓が、何故法明院にあるか?
フェノロサは、教え子・岡倉天心の紹介で住職・桜井敬徳に私淑し、その導きで受戒し、天台・寺門宗に帰依している。院内には、池大雅や丸山応挙の襖絵と並んで、フェノロサの書斎がそのまま残されており、愛用の品々が置かれている。

1908年、55歳でロンドンで客死、遺骨は1年後、シベリア経由で日本に送られ、法明院に葬られた。その全てをロンドンに進出していた「山中商会」が請け負った。
ビゲローは、1926年76歳で没。分骨がボストンから運ばれ、フェノロサの隣に墓が建てられた。
二人のコレクションを中心とした「ボストン美術館―日本の美術至宝」展が、2012年3月20日から、東京を皮切りに、名古屋、福岡、大阪で開催された。
国内にあったら、国宝・重文級の名品揃いだが、なかでも「吉備大臣入唐絵巻」(平安後期)は圧巻。岡倉天心の後、東洋美術部長になった富田幸次郎が、1932年購入、ボストン美術館所蔵となった。遣唐使・吉備真備は在唐中幽閉され、鬼となった阿倍仲麻呂に導かれて「文選」「囲碁」など難題を解き帰国を果たすというストーリーだが、絵が面白い。
吉備真備は空を飛んだり、碁石を飲み込んで体内に留めるなど超能力の持ち主だ。登場人物の一人一人が軽妙洒脱で活き活きとしている。全巻コミカルタッチで、「鳥獣戯画」と並ぶ漫画の源流の一つと言っていいだろう。


ボストンのこの購入をきっかけに、日本を代表する美術品を容易に海外に流出させてはならじ、と1933年「重要美術品等の保存に関する法律」が制定され、海外輸出には文部大臣の許可がいることになった。1950年「文化財保護法」が施行され、新たに重要文化財・国宝が指定されることになった。旧法は廃止されたが重要美術品はそのまま残った。その数は6000件を超えると言われている。
話を三井寺に戻す。三井寺は壬申の乱で敗れた大友皇子(天智天皇の子)の菩提を弔うため、その子・大友与多王が1300年前に創建し、858年唐から帰国した円珍が再興した。
三井寺は、実に多くの国宝、重文を持つ。(国宝10件、重文42件)
その殆どを見て頂こうと「国宝三井寺」展を2008-2009年、大阪市立美術館、サントリー美術館、福岡市立博物館で開催した。開祖・智証大師(円珍)帰朝1150年、狩野光信・生誕400年、フェノロサ・没後100年記念と銘打った。
秘仏が寺を出たり入ったりする度、丁重な法要が行われ、太りじしで短足の身にとって、長時間の正座はまさに難行・苦行のお勤めであった。
三井寺を代表する宝物には、智証大師坐像(お骨大師)、不動明王像(黄不動)、四季花木図(勧学院障壁画、狩野光信)などがあるが、新羅明神坐像はひときわ異彩を放っている。
開祖・円珍が唐から帰りの船、朝鮮沖で「汝の修行を加護するぞ」と言って、夢もとに現れたとのこと。


眉根を寄せ、目尻を下げ、額の深い皺、長い髭、畏怖を感じさせる表情だ。
白く塗られた顔、カラフルな彩色と紋様が施され、エキゾチックですらある。
柔らかな手・指、丸い肩からは優しさが滲み出ている。

源義家の弟、義光はこの新羅明神像の前で元服式を行い、新羅三郎義光と名乗った。後三年の役で活躍後、常陸の国などを治め、三井寺に没す。
甲斐源氏(武田、加賀美、小笠原、南部)を子孫として残す。文武に秀で、流鏑馬などの武術、小笠原・武田流などの礼法の祖でもある。
小生、甲斐源氏の地の生まれ、ことさらこの異形の神に心ひかれたのかもしれない。
さて三井寺は、開基以来、比叡山(天台山門宗)との争いが絶えず、度重なる焼き討ちにあったり、豊臣秀吉から闕所を命じられたり、廃寺の危機にあうが、本尊や宝物は守られ、その都度、不死鳥の如く甦っている。
三井寺162代長吏(管長)福家俊明氏、「顕(教)・蜜(教)・修験」を究め、「済世利人」(世を救い、人を利する)の天台寺門の教えを先導する穏やかな中にも厳しさ・鋭さを湛えた方だった。
何としてでも、この展覧会を成功させたかったのではあるまいか。
大阪市立美術館、サントリー美術館(8万人来館)、福岡市立博物館の展覧会の成功を見届けるように身罷られた。肺癌を患っていたが、おくびにも見せず、全ての法要を物の見事に取り仕切った。
新羅明神の加護かもしれない。
(了)
– 筆者 若林 覚 プロフィール –
アートプロデューサー。元サントリー宣伝事業部長、文化事業部長、サン・アド社長。
サントリー美術館副館長・支配人を経て練馬区立美術館館長。
著書に「私の美術漫歩 広告からアートへ、民から官へ」(生活の友社)
共著に「ビジネス感性の時代」(講談社)など。



