第9章 愉快に死ぬための知恵 その⑵

死について恐怖や不安を感じるのは恐らく死後の世界を考えざるを得ないかもしれない。
少しでも死の恐怖や不安から逃れるために、人類は神なる概念、宗教、スピリチュアル、はたまたオカルトの物語を作りだしたと唱える人は結構いるよね(私もその立場)。一方、死後には天国や極楽の世界が待ち受けているから、一生懸命祈りや念仏を唱えれば救われる、という教えを信じている人も多いだろう(世界的に見たらこちらの方が圧倒的に多い)。
また、魂という概念や臨死体験も死に直結する可能性があるので、多少は触れる必要があるだろう。私の体験から話すのが一番いいかもしれないね。30年ほど前に、以前触れたTM瞑想の10日間の瞑想合宿に参加した。ある程度瞑想を重ねた人向けのシディプログラムという上級コースだった。このコースの触れ込みは何とまあ、空中浮揚ができるというものだった。今思えば、「オイオイ大丈夫かいな?」ってなもんだけど、当時の私はビートルズとヒッピー文化と瞑想にはまっていた。それら関連の本を読んだ際、彼らのグルが電車の中で談笑しながらビートルズの前で一メートル近く浮揚していたとあったので、びっくり仰天した。まあ、ヨーガの行者が同じような技を達成したという本を読んだこともあって、もしかしたらありうる話かもしれないな、と素直に思っていたところに、こんなおもろい話が舞いこんできて、興味深々このプログラムに参加してみたという訳だ。
合宿はそれ程ストイックなものではなく、午前3時間、午後4時間ほど瞑想をして後は、散歩したり、座学をしたりする。内容としては、普通の瞑想をした後に、心の中で唱える聖なる言葉=マントラがどんどん積み重ねられていく(上書きみたいなもの)。恐らく身体中のエネルギーのつぼ=チャクラがマントラと関連していて、あるマントラをつぶやくと丹田のチャクラが活性化し、違うマントラをつぶやくと胸のチャクラが活性化していく、という具合だ。不思議なことに、実際、身体中のチャクラが刺激されて次々と微動するのが実感できた。そして、終盤では、身体中のチャクラが連動して次々と振動する。そこからが決め技?「身体=羽毛の軽さ」のようなマントラをずっとつぶやき続ける。さすれば、あらまあ何ということか? エネルギーみたいなものがお腹の下から背骨に沿って駆け上がり、否応なく身体が上に持っていかれるように飛び跳ねたんだね。スピリチュアルな世界ではクンダリーニといい普通のことらしい。さすがに、空中浮揚とはいかないが、それでも30センチぐらいは空中に持っていかれる。筋肉の力技で自分で跳ねているのでは? と誰もが疑うだろうね。しかし、試してみればわかるが、結跏趺坐(けっかふざ)から上にジャンプなんてできないし、何より100人近く参加した中で、この空中跳躍? ができたのはせいぜい三割程度だったのだから、まやかしや幻でないことは確かだ。
今にして思えば、「だから何なんだ?」と冷静な判断ができるけど、自分のエネルギーが宇宙のエネルギーと一体化して、凄いことを成し遂げた? もしかしたら悟りなるものに近ずいたのでは?という自己陶酔のようなものに包まれてプライドがくすぐられたのだろう。ある意味、スピリチュアル世界のエリートのような錯覚に陥ってしまったのだからね。
オウム真理教の麻原彰晃もこのコースで空中浮揚ならぬ空中跳躍を身に着けたそうだから、大学での頭でっかちエリートがエネルギーの凄さにやられてしまったのも分からなくはない。エネルギーを動かせるというレベルでは彼はそれなりのレベルに達していたのだろうね。だから弟子たちは、エネルギーレベルの高さと悟りのレベルの高さがまるで違うことに気付けず、ころりと騙されて帰依してしまったわけだ。
実は、この合宿中、不思議な体験が他にもあった。一つは半覚醒状態のときに、いきなり天上の音楽のような美しい音色が脳内で響き渡ってきた。何とも言えない天使の歌声のようなメロディーに包まれ幸福感に満たされたのだった。残念ながら3時間程度で至上の響きは終わってしまい、その後二度と聞こえてはこなかったが、今でもそのメロディーは口ずさむことができる。
もう一つは、合宿の途中から、食事の際自分の意思と無関係に勝手に口が動き食べ物を消化しきるまで自動的に完全に咀嚼したことだ。「何だ、大したことない」と思われるかもしれないが、早食い大食いの癖があった私としては、自分の意思と違った風に身体が自動的に動くことの不思議な感動に包まれた。残念ながら、こちらも合宿が終わるとすぐに消えてしまったけれど。
こんな、「なんちゃってスピリチュアル」体験から学んだことは、人間には五感を超えた、あるいは身体を超えた、現実を超えた不思議な能力が備わっているということ。自分の中に流れているエネルギーを感じることも動かすことも可能だし、ある意味外部の宇宙のエネルギーと一体化することも可能(たぶん)、と実感できたことだ。また、見えない世界が存在し、それを見ること、表現することができる人がいる(アーティストやクリエーター、霊感の強い人、修行者など)ことも確かだろう。だけど、そんなことはどうでもいい。たとえ、空中浮揚ができたとしても、だから何だ?ってなもんだよね。つまり、重要なことは、そんな能力は必ずしも、人間性や人格の向上や悟りなるものには結びつかず、むしろ「自分はレベルが高い」「悟りに近い」などというエゴや優越感を育てるというパラドクスに満ちていることだ。スピリチュアルやオカルト大好き人間が陥る大きな罠だよね。
いずれにせよ、魂や死との関連でいえば、確かに自分という五感に基づく意識や閉じ込められた身体感覚を超えたエネルギーの世界があること、そのことを体感するために、これまで述べてきた東洋の技法があるという点は押さえておくのがよろしい。身体が死んだらそれっきり? では収まらないエネルギーの世界があるにはあるらしい。ただし、そのことを自覚し記憶し楽しめる、観察者としての認知機能は死と共に失われているのかもしれないが。
よく悟りの体験談を耳にするけれど、宇宙物理学者の佐治晴夫さんによる、悟りと一体感の解説が私のお気に入りだ。 彼によれば、自分の「自」とは,“自然”のこと,そして「分」とは,“分身”のこと 。だから、自分とは自然の分身,すなわち,自然,あるいは宇宙のひとかけらとしての自己という位置づけになる。「宇宙のひとかけらとしての自己」、つまり我々は「星屑」である。私たち人間も,その「星のかけら」が集まってできているのだから,脳の中にはるかな宇宙進化の記憶が刻み込まれているといっても言い過ぎではない、という。 そしてこの宇宙や自然との一体感が悟りともいえ、「故郷に帰ったようななつかしい感覚」が生じる、という説だ。私たちは宇宙の星屑から生まれ、死んだ後も星屑に帰っていく。すべては循環、諸行無常だよね。私なんて自意識は木端微塵にぶっ飛んでしまう=諸法無我。
見えない世界へのスタンスは、いたずらに賛美するのでも、否定するのでもなく、柔軟なほうがいいのだろう。ただ、ほとんどの瞑想や座禅を極めた人の体験を一言でいえば、ONENESS、すべてが一つに繋がっている、自分という意識は宇宙の中に溶け込み雲散霧消してしまい世界が一つだという楽しい実感だろう。苦しい日常を超えて、そんな世界があるかも?と頭に入れておいた方が精神衛生上よろしい。「人生は苦だ」との教えを常に説いていたブッダが、亡くなる際に「それでも、自然は美しい。命は甘美だ」とつぶやいたのも、そんな宇宙との一体感に包まれて安らいでいたからかもしれないね。そう思い定めると、死ぬのも楽しみに思えるかもしれない。

ここまで死に向かう心構えや死の意味についてあれこれ述べてきたが、「そんな簡単には割り切れないよ」という声が出るのももっともだね。何故なら、理屈ではすっきりしても、死ぬのは実際には凄く大変だからだ。いろいろな方の死にまつわるエッセイを読んでいると、「もう十分苦しんだから死にたい」とどんなに願っても、なかなか死なせてくれない、なかなか死ねない。これが哀しいかな? 実情のようだ。特に病院に入っていたら、否応なく生かされてしまう。医療関係者は誰でも、少しでも生かし続けたい、とあらゆることを試みるだろう。それが彼らの仕事だし、義務だと信じているからね。難しいかもしれないが、病院には極力いかないことが選択肢の重要な一つになるだろう。
<平穏死のおすすめ>
愉快に死ぬとほぼ同じだが、もう少し柔らかな表現なのが、平穏死だ。「自然に枯れて死ぬ」が平穏死の定義だ。長尾DRは「平穏死=枯れて死ぬこと」、の反対として、「延命死=溺れて死ぬこと」と述べている。人生の最後の10日間に過剰な点滴など延命治療をした人は、痰や咳で苦しみ、ベッドの上で溺死している、というのだ。自宅で平穏死した方の遺体は軽く、病院で亡くなった方の遺体は重い、何と10キロ以上の体重差があるという。最後まで一日当たり2リットルもの輸液を行うと心臓や肺に過剰な負担がかかり、心不全と肺気腫でもがき苦しむことになる。つまり、ベッドの上で溺れているのと同じ状態だ、と長尾DRは警告する。恐ろしいね。最後の最後が溺死でもがき苦しむなんて、何とも哀しくて、理不尽だよね。でも「8割の人が平穏死を望んでいるのにもかかわらず、8割の人が平穏死できない」のが、日本の医療の現実だろう。つまり、8割の人が管だらけのまま溺れもがき苦しみながら死んでいるのだ。
そうなると、末期のがん患者や高齢者が平穏死を迎えるためには、なるべく病院のお世話にならないこと、普段から在宅療養を目指すことが第一選択となる。看取りの実績のある在宅医を元気なうちから探すのがよろしい。また、施設を終の棲家と決めた場合、むやみに病院に搬送せずに平穏死を迎えさせてくれる施設を選ぶことが重要になるのは言うまでもない。
難しいのは、救急車を呼ぶか否かの判断だろう。いくら平穏死を願う高齢者でも、のどを詰まらせて呼吸が止まったら、家族はあたふたして救急車を呼ぶことはごくごく普通だよね。しかし、救急車を呼ぶことは「蘇生措置も延命措置もフルコースでして」ということになりかねないことは頭に入れておく必要はある。蘇生したら、自然の流れで延命措置に繋がって管に繋がれてしまう可能性が高いからね。延命措置を途中でやめることは今の日本ではできない。医師が殺人罪で逮捕される可能性があるからね。救急車を呼ぶのではなく、かかりつけ医にすぐに相談できる体制を整えておくことが一番だけど、なかなか、そううまくはいかないかもしれない。誤嚥性肺炎の対処の仕方や転倒から身を守る方法を普段から検討して、予防することが、取り敢えずの方策かもしれないね。


筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。



