第3章 遥かなる安全への道 その1 愉快に生きるのを妨げるトラウマへの考察

愉快に生きるのを妨げる最大のリスクはトラウマだろう。
トラウマとは心的外傷(シリアスな心の傷つき、痛み)のこと。外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃(外傷的出来事)を受けたことで、長い間それに捉われてしまう状態といえる。
トラウマはネガティブなイメージで語られることが多いけど、決して特別な病的な症状ではなく、ごくごく自然なもの。多かれ少なかれ、誰もがトラウマは抱えている。当たり前だよね、苦しきことのみ多かりきが人生とも言えるからね。ほとんどの人は逃げるか忘れるか、気晴らしをするか、怒りやイライラを表現するかして、何とかやっとこさしのいでいる。
ただし、トラウマが酷くなって、生活に支障が出てくる状態になると、それなりに大変だ。いわゆるPTSD(外傷後ストレス障害)だね。発症率は一般に1~14%と統計的ブレが大きい。ただ、3.11の後のように、自らも被災しながら周りのケアをせざるを得ない警察官、自衛官、消防士、看護士などの援助者では3~58パーセントと、がぜん数字は高くなる。
PTSDとは、トラウマになる圧倒的な出来事(戦争、交通事故、災害、犯罪、レイプなど)を経験した後に始まる、日常生活に支障をきたす強く深い反応のことだ。
私たちがチェックする場合は次の5点に気をつける必要がある。
1.フラッシュバック(当時の記憶が、イメージや考えや知覚などの形を取って、追い払おうとしても襲ってくること)が覚醒状態でも半覚醒状態でも夢の中でも繰り返し起こる
2.過覚醒の結果、入眠や睡眠状態の持続が難しいこと。同様の刺激に対して過敏になり警戒心や驚き・恐怖、イライラ、怒りの反応が過度に見られること
3.その体験に関係する刺激を常に避けることで、知覚や感覚の麻痺が執拗に続くこと
4.不安やイライラに圧倒されて、切り替えができないこと
5.自分は役に立たないダメな人間で申し訳ないと思うこと
これらの症状が一か月以内は急性ストレス障害、一か月以上続くとPTSDと診断される。まずもって、ここで重要なことは、これらの症状は圧倒されるような激ストレスに対して人間的に反応している生物的な自然な反応にすぎない点だ。決して人間的な弱さや「どこかおかしくなってしまった」からではない。
この点はいくら強調しても強調し過ぎることはない。被災者や被害者へのサポートでは、まずこの点をしっかり伝え、労をねぎらうことが第一の援助となる。そして、これらの症状は一過性のもので、ほとんどのケ-スでは、PTSDにまでは至らず、1ヵ月ぐらいで症状は収まっていく。PTSDと診断されても、きちんと対処すれば1年以内には症状は収まっていくケースがほとんどだ。
また、自律神経の説明をすることで、被害者や被災者が自分の症状を理解することから「おかしくなったのではなく自然な反応である」と安心し回復の方向へとスムーズに進む可能性が高まる。

心に影響を及ぼす自律神経には交感神経と副交感神経があるといわれていた。
敵(現代ではストレス)が現れた場合、脳の中の古い部分の視床下部が、交感神経(敵に対処しようとして緊張する神経)を瞬時に発動させる。すると、動悸を速め、呼吸を促進し、筋肉にエネルギーを供給し、副腎髄質から恐怖に関係するアドレナリンや怒りに関係するノルアドレナリンというホルモンを分泌させ、血糖値を上げる。こうして緊急事態に備え、敵と戦うか逃げるか(Fight or Flight)反応の体勢を整えるわけだね。ストレス過剰の現代は交感神経が過剰に働いて、心が常にイライラや不安におおわれているといえる。敵やストレスが去れば、副交感神経が起動して、落ち着いたリラックス状態が訪れる。これが、今までのストレス理論だった。前述した自律訓練法は、この二つの自律神経のバランスをとるための最適敵なアプローチだ。カウンセリングに訪れるほとんどの相談者は、自律訓練法を継続してトレーニングすれば、ある程度自力で自分の不安やイライラをコントロールすることが可能だ。また、戦うか逃げるかすることで対処できるケースも結構ある。逃げろ、逃げろ、逃げるが勝ち? だよね。しかし、この理論とアプローチだけではとても追いつかないトラウマや激しいストレスも沢山ある。新たなストレス理解と対処法が必要なのだ。
その2 <ポリヴェーガル理論>
最新のポリヴェーガル理論では、副交感神経の中に、体腹側迷走神経複合体と背側迷走神経複合体複合体があることが発見された。
腹側迷走神経複合体はリラックスに関係する神経。もともといわれていた副交感神経だ。そして、戦うか逃げるか反応や緊張を緩めるだけでなく、豊かな表情を作ったり、声の調子を調整して自分の気持ちを伝えたり相手の応答をキャッチしたりというコミニケションに大事な側面を担っている。いわば、愉快に生きるベースとなる社会神経だね。
背側迷走神経複合体は、一番原始的な神経で、命の危険がある強いストレスがかかると、身も心も凍らせフリーズさせて命を守るシステム。交感神経の「戦うか逃げるか反応」で対処できないぐらい強烈な、死につながる危機的ストレスにはフリーズし動かなくなることで生き延びようとするわけだ。凄い仕掛けが身体には備わっているのだね。動物がどうしようもないギブアップ状態では仮死状態になって動かなくなることで身を守るのも、この神経が自動的に働いているからなんだ。
ここで重要なのはフリーズ状態で動けなくなるのは、この条件下での命を守るための、自然な、しかもベストな選択=危機対応法だということ。
具体的な例で考えてみよう。
レイプをされた女性に対して、「抵抗できたのではないか? すきを見て逃げられたのではないか? 隙があったんじゃない?」なんてアホこの上ない誹謗中傷がSNSなどで主張されることがある。とんでもない卑怯な発言だよね。レイプという極限の状況では、命を守るためにある背側迷走神経が瞬時発動し、動けないフリーズ状態が作られる。つまり、フリーズ状態は身体にとって、命にとって、この時点でのベストな戦略なのだ。心ない周りの反応や雰囲気に包まれて、被害者自身も「動けなくなった自分が悪い。抵抗できなかった自分が嫌いだ」と自分を責めてしまう、という悲劇が起こる。「悪いのは絶対的に相手で、あなたは何も悪くない。むしろその場においてはベストな対応だったのだよ」とサポートしてあげることが絶対的に必要なのだ。しかし、一番身近にいてサポートする役割の家族や援助者が、そんな理解と対応を分かって丁寧に接しないと、善意ゆえに二重に傷付けてしまう悲劇が起こる。善意が悪に加担してしまう。怖いね。
愉快に生きるためには誰もがこの3段階を行き来していることの理解が凄く重要だ。
ストレスが強烈で戦うことも逃げることも難しいと身体が感じたら、身体が動かなくなる。気力も湧かなくなる。誰とも会わず話もしたくなくなり、部屋に閉じこもる。
これも命にとってその状況でのベストな対処法なのだろうね。もちろん、この状態から抜け出すハウツーがちゃんとある。それは基本的に、このエッセイで展開している身体からのアプローチを丁寧に丁寧に少しずつすることだ。動けない状態を少しでも回復するには、少しだけやさしく動くことが基本なんだね。これがベースになる。

それにしても、ある意味、人間のシステムは凄いよね。
自動的に命を守るシステムが3段階にわたって起動するのだからね。
いわゆるトラウマは、この凍り付いたフリーズ状態の記憶が折に触れてリアルに再現されてしまうことだ。小さい頃のいじめや親からの虐待、激しい事故や災害に遭遇した際の恐怖や不安が身体に深く刻み込まれた状態といえるだろう。また、フラッシュバックとは、このトラウマになった体験があたかも今ここで起こったかのようにリアルに再現されて、混乱してコントロールを失う症状だ。学生の相談で、わけも分からないうちにクラスメイトにいきなり暴力をふるってしまった事例に出会ったことが何度もある。昔虐められたトラウマの記憶が、あたかも今ここで起こっているかのように再現されて、無意識のうちに手が出てしまった、という症状だ。殴った相手は、たまたま昔虐めにあった学生に雰囲気が似ていただけで、何も葛藤なんてない相手だった。相手も本人も訳が分からないうちに、暴力だけが独り歩きをしたんだね。怖いね。ベトナム戦争から復員した兵士の多くはPTSDで、訳も分からず暴力をふるう症状も、フラッシュバックのなせる哀しきわざだと言われている。
トラウマの治療法としてエビデンスがあるのはEMDR (眼球運動による脱感作)というアプローチだ。文字通り、治療者が目の前で揺する指に合わせて眼球を左右にリズム良く動かすことで、トラウマに徐々に慣れ、恐怖やイライラが薄れていく方法だが、信頼できる専門家の指導の下で継続して行わないと効果が表れにくいのが難点だ。ここでは、自分でも簡単にできる、EMDRと 同じリズム運動のアプローチとし、バタフライハグを試してみてほしい。トラウマやフリーズ状態からの解放だけでなく、ストレスの予防や対処にも、愉快に生きるためにも使えるので、試す価値がある。私も折に触れてバタバタバタバタと蝶のようにはばたいているが、相当風変わりな変な人と思われているに違いない。愉快が一番。周りの反応なんて、へのへの河童だよね。

<バタフライハグの方法>
1.両手を胸の前で交差させ、自分を抱きしめるようにする
2.蝶々が羽ばたくように両腕を交互にやさしくパタパタと叩く
(赤ちゃんをあやすように)
3.自分を勇気づける言葉をつぶやき続ける。「何があっても大丈夫」など
自分の中の健康で愉快なまんじゅうのあんこの部分が胸付近にあるとイメージしながら。あるいは小さい頃の無垢な自分をイメージして、微笑みながら10分から20分続ける。
フリーズして動けなくなるような症状に対しては、このように少しだけやさしく丁寧に動くことが回復への第一歩。愉快に生きることへのベースにもなるのは言うまでもないよね。カウンセリングでは、さまざまな相談があるが、大本にトラウマ体験があるケースが多い。軽いトラウマなら、ほとんどの場合このバタフライハグで改善していく。もちろんほっとできる居場所が必要なのは言うまでもない。世界中が脅威に満ちている状態だからね。

筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや
学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。 また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。