第5章 愉快に生きるための呼吸法 その(1)
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人間の本質は「流れる身体、流れる心」と以前述べた。
その流れるリズムを全体として司っているのが呼吸だよね。心と身体を繋いでいる大本も呼吸だ。愉快に生きるためには、静かでゆったりと安定した深い呼吸がベースになるのは言うまでもない。呼吸が奥深いのは、前述した自律神経と深い所で繋がっているからなんだ。呼吸は不思議で、吐く息が腹側迷走神経(リラックスする社会神経)と繋がり、吸う息が交感神経(戦うか逃げるか反応)に繋がっている。
一般的には、交感神経はストレスの元、戦うか逃げるかモードは静まるにこしたことはない、と悪者扱いされている。ところが、どっこい。交感神経も多いに役に立つのだから身体と呼吸は奥深い。たとえば、格闘技の選手は試合の前に、わざと吸う息を早く激しくする呼吸法をして、戦うための興奮状態を作り出すという。身体も心もガチガチの臨戦態勢を呼吸によって意識的に作り出すのだ。おもろいね。試しに1分間だけ吸う息を激しくする呼吸を試してみてほしい。何だか興奮してやる気が出てきて、頑張りモードに入れるから不思議だね。やる気が出ない、と訴える学生に、この呼吸法を実施してもらうと、かなりの割合でやる気モードに入れるので、かなり使える呼吸法だ。ただし、やり過ぎないように。1分程度がちょうどよろしい。いわゆるパニック発作は過呼吸状態、交感神経の極限だからだ。もちろん、逆にのんびりリラックスするためには、吐く息を長くゆっくりにする呼吸法が必須となる。呼吸を自在にコントロールすることで自由に自分をプロデュースでき、愉快に生きるベースができるというわけだ。なかなかに奥深いね。
私自身の呼吸法との出会いは結構歴史がある。だいぶ昔のこと、周りから引きこもって孤立していた高校生の頃だった。苦しそうで哀しそうで不安でいっぱいの、今にも死んでしまいそうな私を見るに見かねた保健室のおばあちゃん先生が簡単な個人ワークショツプを開いてくれた。私の言いたいことをとことん聴いてしっかり受け止めてくれた後、「一人ぼっちで何だか訳の分からない憂鬱な気分に圧倒されて死にたい気分にさせられてしまってるけど、その気分さえ変われば、『そんなもの、ケッ、糞みたい』って思えるようになるし、その方法があるんだよ」って説明して、その方法を教えてくれたんだ。
その方法は実に簡単で、当時の私には実に効果抜群だった。死にたい気分や周りのことに意識を向けるのではなく、呼吸に意識を向けるだけ、たったこれだけで私は救われた。不思議だったね? 呼吸のどこに意識を向けるかは、私が一番意識を向けやすい所でいいって言われたんだ。お腹のふくらみでも、鼻の出入り口でも、呼吸の音でもね。私はお腹のふくらみ、ちじみを意識すると同時に呼吸のかすかな音に意識を向け続けたんだ。そして、吐く息ごとに「ひとつ、ふたつ、みっつ~」と十まで数えたら、また「ひとつ~」から繰り返した。20分ほどおばあちゃん先生と一緒に呼吸に意識を向け続けたら、あら不思議? なんてこった? どろどろした嫌な感じがすっと音を立てて消えていったではないか。もちろん、場の力もあった。母親のようなおばあちゃん先生の温かい雰囲気に包まれた安全の場だったから、機能した面も大きかったと思う。
そして、もちろんこの1回だけで完璧にクリアしたわけでなく、毎日20分を3回繰り返すことで、何だか自分の中に周りに左右されない軸みたいな核みたいなものがちょっとだけできた感じがしてきたんだ。死にたいなんて気分はすっかり収まってしまった。人間て、何て複雑で何て単純なんだって、しみじみ恐れ入った次第だ。身体はいたってシンプルで「生きたい、サバイバルしたい」という生命力がちゃんと備わっているんだからね。「頭ではなく、いつでも身体の声を聞けばいいんだ」って思ったら、生きるのがそんなに辛くなくなってきた。こんなやさしくて素敵な方法があるんだと実感してからは、世界中のさまざまな呼吸法を勉強して、片っ端から試していったんだね。
ちょっとだけ、呼吸法のおさらい。
呼吸法自体には古い歴史がある。5000年前のインドや中国では、ヨーガや導引(現在の気功)の修行体系の中で、すでに呼吸法が悟りへのメソッドとして実施されていた形跡がある。ブッダが悟った際のプロセスとしても、呼吸への気づきによる瞑想がベースにあったといわれている。また、座禅でも初心者は数息観といわれる、吐く息を数える瞑想法から入ることが多い。
呼吸法の効果としては、リラクセーション、気持ちの安定、不安・緊張の軽減、気づきや悟りへの効果的ツールなどさまざまな点が指摘されている。愉快に生きるためのベースだよね。ここでは、科学的生理的研究として、呼吸法が不安を軽減するという基礎研究がかなりあるので、紹介してみる。たまにはエビデンスベースド(証拠主義)も役に立つ。
<ゆっくりした呼吸の生理的効果>
* アイゼンら(Eisen et al.,1990)は20名の大学生に2種類の呼吸数で呼吸するように教示し、その呼吸調整が心理状態に及ぼす効果を検討した。実験場面で、1分間に10呼吸のゆっくりとしたテンポの呼吸と1分間に20呼吸の速い呼吸を行わせる教示が含まれた5分間の2本のテープをそれぞれ聞き、被験者はテープの中のテンポに合わせて呼吸をコントロールした。その前後に質問紙に回答してもらったが、その結果は、ゆっくりした呼吸を行った場合のほうが、速く呼吸を行った場合よりも不安得点が低く、リラクセーション得点が高かった。
* 坂野ら(1993)は、通常の呼吸のペースで数息観(息を吐くごとに1つと数えていく)をしながら呼吸する群と、通常のペースの3分の1の遅いペースで数息観をしながら呼吸する群と呼吸には注意しないでビデオを見る統制群の3群について、肩の2点閾値(いきち、数値の境)について呼吸調整の効果を比較した。その結果、ゆっくりしたテンポの呼吸によってリラックス状態を示す2点閾値が有意に低下した。
* リングら(Ring et al.,1999)は、被験者に1分間に6回のゆっくりとした呼吸運動を行わせたときの心拍変動について調べた。その結果、ゆっくりした呼吸時に心拍の変動性が高まり、腹側迷走神経(副交感神経)の活動が活発になることでリラックス状態がもたらされることが示唆された。
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<呼気時間を長くする研究>
* 鈴木ら(2000)は吸気時間より呼気時間を長くさせた時の心理生理的効果を調べた。
・タイプA型行動傾向(AはアグレッシションのA。攻撃的、焦燥的な行動傾向)
・クレペリン作業検査(簡単な一桁の足し算を続けることで性格、行動面の特徴を測定する検査)
タイプA型行動傾向が高い被験者に、その傾向を高めるクレペリン作業検査をさせ、課題中に呼吸調整を行う実験群と呼吸調整を行わない統制群に分けた。その結果、呼気を長くする呼吸調整を行った実験群では腹側迷走神経が優位になり、怒りや時間切迫感、焦燥感というタイプA型行動傾向が改善されることが認められた。
このように、科学的に効果があるというデータが出ているのは、ゆっくりした呼吸と吐く息を長くする呼吸だ。そういう意味では、吐くときに時間をかけてお腹を引っ込める腹式呼吸が両者をクリアしている。ヨーガの呼吸法、仏教が伝える呼吸法、気功の呼吸法などほとんどの呼吸法は腹式呼吸なので、どの呼吸法をしてもある意味では効果は変わらないともいえる。
―>次回、呼吸法 その(2)は呼吸法の実践
筆者 大澤 昇 プロフィール
日本産業カウンセラー協会認定シニア産業カウンセラー・臨床心理士。
1971年 早稲田大学卒業、2004年 目白大学大学院修了後、企業内カウンセラーや
学生相談室カウンセラー、また大学講師として様々な経歴を持つ。
現場で培った経験を活かし、メンタルヘルス講師や、教育カウンセリング講師、大学の非常勤講師として活躍中。
また数多くの論文・著書を発表しており『やすらぎのスペース・セラピー 心と体の痛みがあなたを成長させる』『心理臨床実習』『トラウマを成長につなげる技術』等の著書がある。